トガニ 幼き瞳の告発
いつか観なきゃな…と
先延ばし、先延ばしにしていた映画をついに観ました。
以下ネタバレはしてない…はず!
この映画の存在はずっと前から知っていたのですが、どう考えても内容が重いので、観ると決断するのにすごく時間がかかりました。
正直「闇の子供たち」を観てる時のような気持ちをまた味わうのがしんどかったのです。
観るキッカケになったのは宇多丸さんがラジオで取り上げていたの聞いたことです。
「事件を風化させないために、商業的にもこの映画をヒットさせなければならなかった」という話を聞いて、観てみよう。と思いました。「商業的に成功」ということを視野に入れて作られているなら、何とか観られそうだと思えました。
この映画は実話をもとにしており、韓国で公開された後大反響を呼んで、事件の再調査や法が制定されることにつながったそうです。「その時歴史が動いた」ですね。
映画に登場する学校は聴覚障害のある子どもたちの通う学校で、職員が生徒に殴る蹴る、また性的な虐待が日常的に行われています。そこに主人公が美術教師として雇われやって来ます。
虐待は寮でも行われており、虐待を受けている子どもたちは親に守ってもらうこともできません。加害者はそういう子を選んでいるんです。学校にも家(寮)にも安心できる場所がないって絶望。
子どもが虐待されるシーンは音量落としたり大画面にせずに観たりしないとしんどすぎて観られませんでした。
言葉で何て説明したらいいのかわからないです。
涙も出ませんでした。涙浮かびはするんですけど、流れないんですよ。
観終わってから考えたのですが映画全体を「泣けるように」作ってないんだと思います。
泣くとスッキリしちゃうから。流れてっちゃうから。
これは後観終わった後にスッキリしちゃだめな映画だから。映画の中の世界から現実につなげるための映画だから。
「泣ける!」っていう映画がたくさんあるので、逆に、どんなにつらい内容を描いていても「泣かさない!」っていう作り方もできるよねたぶん。
(中には泣いたっていう人ももちろんいるとは思うけど)
ああいう終わり方をしたからこそ実際に韓国でその後の活動が広がっていったり、別の場所でも、別の国でも、今まさに起こっているかも、って思わせられるんだと思う。わたしが今まで観てきた映画の中には問題が解決しないまま終わって観てるこっちはすごくモヤモヤしたものが残るっていうのがたくさんあったけど、この映画ほど観客の行動を駆り立てる影響力ある作品っていうのは初めて観ました。
子どもたちが暴力を受けているその時だけでなく、次いつまた来るのかと怯えながら何日も、何年も過ごしていたのかと考えると、……
映画の時間はだいたい2時間くらいだけど、実際に被害者が怯えて過ごす時間はもっと途方もない時間ですよね。日常化してるって言葉にすると簡単だけど、生活の中に、ごはんを食べる眠る勉強や仕事や家事をする買い物をする、そのなかに「暴力を受ける」「暴力に怯える」が入ってるって…
こんな人が校長
こんな人が先生
こんな人が警察
こんな人が弁護士
こんな人が裁判長
エトセトラ、エトセトラ…
この映画の中でのこれらの職業は「何のために存在してるの?」って感じです。
職業だけでなく、「この人はなんのために生きてるんだろう?」ということもだんだん謎に思えてきます。
意味が無きゃ存在しちゃいけないなんて思ってないですけど、悪事の共犯になってでも豊かにしたい生活って、幼い家族を踏みにじってでも続けなきゃいけない生活って、なんなんでしょうか?
そして何より本当に単純に、どうして加害者みたいな人たちがさっさと裁かれないのか。っていう疑問が沸き上がります。不思議でしょ。七不思議のうち七つ全部これでしょ。
ところがこれ七不思議じゃないのだ。現実なのだ。
子どもの頃の自分に、こんなこと言えないですね。
夢消え失せるわ。一番怖いの人間だったわ。あと時間だけは誰にでも平等とか言うけどこんなに絶望的な言葉だったんですね。楽しくても怯えていても、同じ長さの時間をすごさなきゃいけない。(時計上は)
この場合の平等は残酷ですね。つらい時間を強いられてる時は早くすぎればいいのに。
映画に出てくる汚い汚い汚い大人たちと対になるのは、葛藤がありながらもまっとうな神経を持ってる主人公や人権センターの人々そしてこの映画を作っている人たちだと思います。映画の中だけで考えるとまっとうな大人というものが悲しいほどに少ない印象ですが、この映画を作り公開させる大人たちがいるということが少しだけこの映画を観た後の救いになると思います。
映像がもつ、権力を握った「悪」を暴走させっぱなしにさせないための抑止や監視をする力が今後もドシドシ活用されてほしいなと思いました。